高低差のある、意識レベル
自分が「全体」、そのもの。
この感覚で日常を過ごすことがあります。
外を歩いていて、空に浮かぶ雲も、風にそよいでいる木々も、公園ではしゃいでいる子どもたちも、目に映るすべてが広大な自分の中にあるような、それでいてそこに「自分」がないような、何とも心地のいい感じ。
すべてが混ざり合っているので、良いものも悪いものも、極端に刺激するものがそこになく、ただただ、ニュートラルな状態。
それでいて、満たされている。
足りないものなど、何もない。
それは未知の領域ではなく、深い瞑想のときに体感している感覚でもあります。
瞑想せずとも、日常的にその感覚で過ごすことができていくと、楽に軽いエナジーでいられます。
そうはいっても、意識レベルとは固定されるものではなく、常に流動的。
「自分」と「それ以外」を分けることのない全体であるという感覚から、エゴを持った現実の自分に戻ると、「自分」と「あの人」と分けて見るようになり、「なぜあの人はこういうことをするのだろう」と考えたりするのです。
そして、そういう自分を残念に思ってみたり。
自分とすべてがつながっているという感覚でいるほうが、分離しているという感覚よりも心地いいのです。
何かを肯定も否定もしようとしない領域は、本当に楽。
自分が在りたいレベルの意識に、その都度戻そうとしていく。
その積み重ねが大切かもしれません。
瞬時に、現実化していく
そういえば、かなり前から時間の流れを感じなくなり、昨日、今日、明日といった境目もなくなりました。
時間は直線的に流れているというのは幻想であり、意識の中にしか存在しないと気づくと、本来の自分とつながりやすくなります。
地球の次元シフトによって、エナジーが現実化されるスピードが速まっているという説があります。
以前は何年も、あるいは何世代かかっていたものが、いまは一瞬。
四次元以上になると、すべてが「いま、ここ」に同時にあるという状態になるのだとか。
瞬時に現実化されるということは、どの瞬間も、自分が意図したとおりになっているということ。
だからこそ、自分がいま何を思い、何を言い、どう感じるかは大切で。
「私にはできない」「難しい」「わからない」「不可能」「手に入るのはこの程度」
そう頭をよぎったり口走ってしまったら、言い直して欲しいのです。
「私にはできる」「簡単」「わかる」「すべて可能」「すべての恵みを受け取る」と。
いじけていたり自分自身を過小評価していると、すべてが楽々で簡単に受け取ることのできる領域へのフリーパスを、自ら手放しているようなものなのです。
自分に制限をかけているものがあるとしたら、それはすべて自分の思考にあるから。
気づいたその都度、外していきましょう♪