ソニアのききみみ

感覚で捉える光を綴ります

神聖さは、いつもそこに

Divinity Is Right There Always

人間としての自分に見る、穢れ

瞑想して、自分の全体を観ていたとき。

「人は、笑顔の裏で、恐ろしいことをするものだ」

というエナジーを抱いていることに気がつきました。

エナジーフィールドに凹みがあり、そこにサイキックアタックを受けやすくなっていたのですが、そのような思考パターンが保存されていたのです。

つまり、そういう現実を繰り返し体験しやすかったということ。

母がクリスチャンなので、幼い頃はよく、夜寝る前にお祈りをしていました。

そのとき、私は内心思っていたのです。

「こんな人類を、神はお赦しになんてならないだろう」と。

もちろんそこには、自分も含まれていて。

「人は、恐ろしいことをする」

そして自分も同じ人間だから、同じものを持っている。

だから、罪深くて、穢れている。

物心ついてからというもの、植物や動物に接するときにはいつも、どこか罪の意識を抱いてきたところがあります。

「こんな人間でごめんね」と。

神聖さは、いつもそこにある

幼い頃、すでに自分の「神聖さ」は失われた、奪われた、穢された。

そう感じていたから、自分に対する嫌悪感やどこか許せない気持ちを持ち続けてきたのかもしれません。

でも本当は、「神聖さ」は失うことも、奪われることも、穢されることもないのです。

神聖さを曇らせていたのは、他でもない自分の目。

自分が自分をどう見ているか。

自分が他者をどう見ているか。

自分が世界をどう見ているか。

神聖さを発揮するかしないかは、自分次第。

でも、それはいつも、誰の内にも、あり続ける☆

神の領域には、罪も罰もない

そして、「赦されない」という感覚を癒そうとしたとき、そもそも神の赦しを請う必要もないということに気づかされました。

赦しとは、罪と罰の概念のある次元の世界の話。

罪も罰も存在しない領域に神がいるのに、赦すも赦さないもない、ということ。

もちろん「神は罰を与える」と信じていたら、条件を付ける神様とつながります。

でも、私が信じる「神」は、どんな人も、すべての存在を、無条件に、愛で包みこんでくれる。

いつも、すでに、赦されている。

気づくと、金色の粒子の無条件の愛が、自分の中に浸透していきました。