共感で広がる、人間関係の心地よさ
他者から共感を得たいという欲求は、誰もが抱いているものかもしれません。
自分の気持ちや考えが理解される。
自分の感覚やセンスが認められ、受け入れられる。
自分の考えに同意してくれる人がいる。
それは、自分が他者や世界とつながっている感覚にさせてくれ、安心感を与えてくれるものでもあります。
そのために、自分に共感してくれそうな人とそうでない人を、私たちは無意識のうちに選別していることもあるかもしれません。
私は、自分の感覚を信じて生きようと決めたときから、ガラッと人間関係が変わりました。
変わった、というより、自分で意識的かつ無意識的に選んでいる、という表現が正しいかもしれません。
自分と波長が合わない環境から潔く引き上げるということは意識的に行いましたが、その後もたらされるご縁などは、無意識に引き寄せ、つながりができている感覚があります。
共感されないと、悲しい?
自分にとって心地よさが増していくので、それはそれでよいのですが、波長が合わなくなったからと、馴染みのある人や環境が遠ざかっていくのは少し残念な感じがします。
もしかしたら、私から遠ざけていることもあるかもしれません。
たとえば、このブログをお読みくださっている方やヒーリングを受けてくださっている方は、霊的な話、形而上学的な話が通じやすい。
こちらの声が、届きやすい。
目が、耳が、心が開いている。
聞こうとする、分かろうとする姿勢がある。
でも、そうではない人たちが相手の場合、どうしても思ってしまうのです。
どうせ、共感されない、と。
わかってもらえないし、わかり合えない。
だから、話をしてみようとすら、思わない。
世界線は分かれるものだから、それでいい。
そう、思っていました。
でもその奥底には、悲しみがあることに気づきました。
とはいえ、たとえ共感を得られたとしても、その悲しみは消えない。
どうやら、人から共感されないこと=悲しみ、ではないようなのです。
無力感から放棄する、自分の可能性
その悲しみの奧を探っていくと、
「自分には世界を変えることはできない」
「自分は無力である」
そう、思い知らされることへの怖れがありました。
世界を変える、とは「自分は他者に理解されない」という世界から「理解される」という世界へと、自分の持つレンズを変えることです。
そして「どうせ何も変えられないのなら」という諦め感がもたらす影響は思いのほか大きいようです。
初めから何もしようとしない、その言い訳にもなっている。
「自分にできることはない」
その思いがその現実を創るので、その前提で話をしたところで、
「やっぱり共感されなかった」
「わかってもらえなかった」
「何も変わらなかった」
という体験を実際に繰り返していくんですね。
そうして、何かをしようとすることをやめていく。
欲求を持つことを、諦めていく。
「これ、やる意味あるのかな」
「自分は、存在してもしなくても同じかな」
すべてが無意味に思えて、虚しさのループに陥る。
この状態のとき、私たちは知らず知らずのうちに、自分の才能を眠らせます。
無力感や諦め感から「やらない」という選択をし、「能力を使わない」という宣言を自分の細胞に行き渡らせている。
出来ていたことですら、本当は出来ていなかったのでは、と思うとき。
それは、出来ていたときに使っていた細胞を自ら眠らせたからなのかもしれません。
私たちはいつも、何かを動かしている
『自分は無力であると思い知らされること』への怖れを手放すヒーリングをしているとき、次のような感覚が癒しとして入ってきました。
私たちは誰かや何かと交流するだけで、必ず相互作用が起きている。
何らかのピースを相手に投げかけているし、投げかけてもらってもいる。
それを受け取りたいかどうかは、自分や相手の意思次第だけど、この投げかけるやり取り自体は、いつも必ず発生している。
たとえわかりやすい反応がそのときなかったとしても、「受け取る」行為がそのときでないだけで、1週間後、あるいは1年後、自分がそれを目撃しないだけで何かが動くかもしれない。
見えないところで、私たちはいつも何かを動かしている
行動していなくても、自分の意図や意識ひとつで動くこともある
誰もが在るだけで意味がある、価値があるとよく言いますが、それは、個別で見ると微細で動いているかどうかわかりにくいものであっても、全体で見ればダイナミックな動きに寄与しているんですね。
一片を切り取って何も変化していないように見えても、全体で見れば大きな変化が起きている。
誰もがみんな、存在するだけで、世界に変化をもたらしている
みんな、いつも何かを生み出している
この感覚が浸透していくと、「共感を得た」「理解された」という実感を得るかどうかはどうでもよくなりました。
もちろん、誰かと共鳴した瞬間は嬉しく、喜びではあります。
でも、そこを得たい、得ようとしなくても大丈夫なのです。
もうすでに、自分の存在が意味のあるもの。
だったらなおさら、自分ができること、やりたいことを淡々とやっていけばいい。
そこには、影響を与えようとか、何かを変えようとする必要のない、肩の力が抜けた「ただ、やるだけ」という、エゴフリーでニュートラルな感覚だけがあります。
もしいまあなたが、自分に対する無力感や、人間関係において行き詰まり感を抱いているなら、この視点・感覚を想像して浸透させてみてください。
自分のところから、見えないところで波及していっている何かが必ずある。
それが何かがわからなくても、自分がそれを生みだし、相手が受け取って返してくれている、あるいはその相手からさらにネットワーク式に波及し、広がっていっている。
光のボールが自分の手元から離れて、国や世界を超えて広がっていく様子を視覚化してみるのも効果的です。
ダイナミックな変化の中にあって、「絶対」などない
「絶対わかってもらえない」そう思うとき、それは自分の防衛本能が働いているのでしょう。
共感してくれるだろう人たちと、そうではない人たち。
本当は、そんなにはっきりと二分できるものではありません。
そして、みんなそれぞれがダイナミックに変化し続けているから、関わることはないだろうと思っている人たちとも、いつかはまた交わることもある。
私自身、何年もヒーリングを続けていたら、初めは半信半疑だった家族たちにも信じる気持ちが育っていたようで、ヒーリングを受けてくれるようになりました。
「信じない」「わからない」という言葉とは裏腹に、「信じたい」「わかりたい」気持ちが奥底にあることもあります。
ふと、こんな言葉と出逢いました。
To one who has faith, no explanation is necessary.
To one without faith, no explanation is possible.信じる者には説明は不要
信じない者には説明は不可能St. Thomas Aquinas
そういうことなのだと、腑に落ちた瞬間です。