昔のパワーゲームの相手
今日、久しぶりに兄と両親と一緒に昼食をいただきました。
兄は、歳は重ねてもティーンの頃と変わらず、両親に対しての話し方は優しさに欠け、辛辣なところがあります。
彼は、数十年、サイキックフックという形で、私から自尊心という光を奪い続けた人です。といっても、優劣というパワーゲームに乗っていたのは、私も同じ。
私が「自分はいつも貶められなければならない存在である」という思い込みを抱いたまま生きてきたことも、原因としてありました。
自分の価値をいつも自ら下げて、他者に優位に立たれることや支配されることを許容する傾向が、私にあったのです。
それを手放したあとは、人より優位に立ちたいというパワーゲーマーたちと遭遇することはほぼなくなりました。
交わることのない世界線
この優劣のパワーゲームに乗り続けるか降りるかが、私たちの世界線の分かれ目のひとつだったのかもしれません。
人が誰かと家族として生まれてくるのは、そこにお互いから教え教わるものがあるから。
それが何であるかに気づき、共に癒していくことができたら最高ですが、どちらかが「いつまでも変わらないでいる」ことを選択していては、お互いの生きる世界が交わることはなくなっていくのだと思います。
いま、私が生きている世界線に兄はいないし、兄が生きている世界線に私はいない。
人は誰しも、純粋な光を、内側に持っている
もちろん、またいつか交差すればいいなと願っています。
でもそうならなくても、愛は送りつつ、お互いの自由意思を尊重する、それでいいのだと思います。
家族だからというだけの理由で、同じ世界に生きようとか、無理にわかり合おうとかしなくていいんですね。
そして、自分なら絶対にしない振る舞いをする人を、自分の価値観でジャッジしないようにしています。
それがその人の性格ではなく、「本来の自分」から迷子になっているだけの苦しんでいる魂に見えてしまうから。
私もかつてそうでしたし、きっと誰もがいつか気づくときがくるのだろうと思います。
自分をもっと大切に生きよう、と。
いつか、きっと。それが今世とは限らない、というだけ。